動物愛護法の先駆けだった 江戸の生類憐みの令とは?
以前、動物愛護法について説明した記事を書きました。
今回は江戸時代の動物愛護法の強力バージョン、「生類憐みの令」という江戸時代の法律をご紹介します。
これは生き物を保護しようという法律なのですが、間違った歴史解釈から「悪法」として理解されてしまっています。
実は、教科書などで教えられている以上に、素晴らしい法令だったのです。(あくまで客観的に考えてです)
では、実際にどんなものだったのか見ていきましょう。
生類憐みの令を制定した徳川綱吉とは?
江戸時代5代将軍に就任していたのが、徳川綱吉です。
彼は幼いころから父親とほとんど接触をすることなく、成育歴のほとんどを母親と一緒に暮らし過ごしていました。
身長が130センチほどしかない小柄な将軍で、本人もそれをコンプレックスにしていたそうです。
「文治政治」という政策方針を打ち出し、学問を収めることを江戸の市民や政府官僚に対して奨励しました。
現代日本では、よく教科書などで「天下の悪法」を作り出した、ろくでもない将軍というレッテルを張られがちなのがこの将軍です。
しかし、実情は全く違い、彼のなした政策は江戸時代の「生き物」に対する庶民の考え方を大きく変えたといえます。
生類憐みの令とは?
簡単に言えば、生き物を大切にせよという命令なのですが、その生き物の範疇が非常に大きかったことが問題とされています。
当時食用として利用されていた、豚、牛、そして一般庶民が飼っていた犬、猫、時には虫にまで「生き物」の対象とされました。
そして、これを大切にしなかった、むやみやたらな折衝を行ったものは厳罰に処するtおいう法令でした。
実際にこれで処罰をされた者は、約24年間で69件となっています。
この数字を見てもわかるように、世間で認識されているほど、処罰された件数は多くないということが分かりますね。
私たちが知っているほど、悪い法律ではなかった
実はこの法令が多くの人に勘違いされている点が2つほどあります。
一つ目は、この法令によりむやみやたらな処罰が繰り返されたというわけではないということ。
先ほども説明したように、処罰されたのは約69件だけです。
そのほとんどが、何度も無慈悲な折衝を禁止したにもかかわらず、これを遵守しなかった者たちです。
年間に換算すれば、一年間で2件ほどの処罰が下されていたことになります。
これ明らかに少ないですよね?
教科書などで教えられた内容によれば、何万件もの市民がこの法律により多くの被害をこうむったと認識されがちですが、実情は全く違ったのです。
二つ目は、この法令が動物にのみ適用されたのだろうという勘違いです。
先ほど挙げた生き物にのみ適用された法律ではありません。
簡単に言えば、人間にも適用されたいました。
むしろ人間に対してこの法律を及ぼすことが目的だったのでしょう。
これに関しては以下で説明します。
人間を守るために制定された「生類憐みの令」
そもそも、この法令を制定したのは当時深刻だった社会問題を解決しようというという狙いがあったからです。
当時問題とされたいたのは「うばすて山」、「赤ん坊遺棄」という問題でした。
いわゆる口減らしというやつですね。
家計に余裕のない人が、少しでも財政を浮かすために身内を捨てるということが横行していました。
そしてその捨てられた人間たちが「強盗」、「治安悪化」という問題を引き起こすこともあり、人間の尊厳というものを軽視したこうした行為を少しでも減らしたいと思い、徳川綱吉は「生類憐みの令」を出したのです。
人間の尊厳を守り、声明を尊ぶという観点から作られたのが実はこの法令だったのですね。
それがだんだんと動物に及んでいき、今日のようにこの法令が天下の悪法のように考えられてしまう結果になったのです。
生きているものを尊ぶ法律の先駆け
歴史上、生きているものに対しての尊厳を付与する法律というのはこの法令が先駆けだといえるでしょう。
この法令ができたおかげで、人間や動物の命が救われる結果になったのですから。
実効性に関しては疑問視されている面も多いですが、戦国時代から続く生き物を平気で殺生するという習慣に、大きな変化を与えたのがこの法令だったわけです。
私たちが教えられた内容とは、少し実情が違ったようですね。
いわば、生類憐みの令は、天下の悪法ではなく、生き物を大切にしようという習慣を江戸の時代に取り入れた画期的な法律だったのです。