Animallife

動物の総合メディア  主に動物と医療、法律、動物行動学に関しての情報をお伝えしています

動物を飼うってなんだろう?(難病の犬を飼っていた私)

日々私たち飼い主は、動物から非常に言葉では語りつくせないほどの癒しや幸せをもらっています。

また、動物を飼うということは、私たちの人間力を鍛えてくれるものでもあります。

ある実験によると、動物を飼っている人と飼っていない人を調査して、人間関係での共感力を測定したところ、動物を飼った体験のある人は非常に共感力が高く、円滑な関係を構築する能力にたけているというデータが発表されました。

 

こういった良い面がある反面、もちろん辛くて悲しいことが飼い主さんには訪れます。

それは動物の病気、動物の死です。

 

ペットに対して思い入れを深くすればするほど、受ける傷も当然深くなります。

もちろん、ペットを飼いなおして、いわゆるペットロスの痛みを少しでも緩和しようとする飼い主さんもいらっしゃいますが、どちらにせよ動物が死ぬということは、つらくて悲しいことだということに変わりはありませんね。

  

難病の犬を飼っていた私

私は、以前犬を飼っていました。7歳で亡くなってしまったのですが、その子は非常に明るくまた家庭の中でも私たちに言葉で語りつくせない思い出をくれました。

いまだに思い出して泣くこともあります笑

ちょうどクリスマスの季節に、犬は我が家の家族になりました。

 

 

その犬は、4歳くらいから体の調子を壊し始めました。

お世話になっていた動物病院での血液検査の結果が芳しくなく、腎臓や肝臓の数値が非常に高い状態でした。

お医者さんがいくら調べても原因がしばらくわからず、どうしてよいのかわからない日々を送っていました。

しばらくして、病院を変えて、本格的に検査をしていただいたところ、アジソン症という病名で診断をされました。

 

アジソン症

簡単に言えば、これは腎臓と肝臓の機能が日々弱っていき、薬の投与を日常的に行わなくては生命維持ができない、しかもその原因というのはいまだに解明されていない難病です。

人間にも発症する病気なのですが、いまだに明確な治療法は確立されていません。

 

その病気を知ってから約4年間ほど、私たち家族はみなで協力して、我が家の犬をサポートし続けました。

毎週点滴をおこわなくてはならず、薬を飲ませながら看病していました。

散歩は通常通り行えたのですが、点滴の影響もあり、おっしこの回数が非常に多かったことから、2,3時間ごとにおしっこをさせに外に散歩をさせに行ったりました。

治療費もばかにならず毎月非常に多額の出費がかさみ、いつになったら終わるのだろうと思ってしまったこともありました。

 

クリスマスの日に引き取り、クリスマスの日に亡くなった

そんな中、私たち家族の犬は、非常に頑張ってくれました。

毎週辛い点滴も頑張ってくれ、飲みたくもない薬もしっかり飲み、家族の支えの中で精いっぱい生きていました。

 

しかし、犬が7歳になった冬、ちょうどクリスマスの季節でした。

突然体調を壊したためにすぐに動物病院に連れて行きました。

しばらく入院をさせて、その前にいったん検査をしましょうと先生に言われ、その言葉に従い私は、犬を動物病院に残して、病院の近くの小さな喫茶店で終了まで時間をつぶしていました。

 

数十分すると、突然私の携帯が鳴ったのでそれをとると、犬の容体を見た先生がもう無理かもしれないとおっしゃりました。

私はわけがわからず、すぐさま病院の検査室に入ると、そこに横になって生命維持装置を付けKられた犬がいました。

しばらく気が動転しながらも、必死になって言葉をかけ続けました。

 

何分経ったかわかりませんが、必死になって呼びかける私たちの声に対しての反応はありませんでした。

そのまま、犬はなくなってしまいました。

享年7歳、早すぎる死でした。

 

しばらく続いたペットロスの日々

家の中に、今までいたはずの家族がいない。しかももう会えない。

手は尽くしてあげたけれども、もっと何かできたのではないかという自責の念や後悔の気持ちに襲われることもしばしばありました。

家に帰るのが苦痛でたまりませんでした。

特に夜になると家に帰ると、私はまだ当時高校に通っていて、両親も仕事をしていて家におらず、家に帰れば犬の姿はない。

 

誰もいない真っ暗な部屋があまりに悲しすぎるので、友人たちと時間を過ごして少しでも悲しみを紛らわせようとしていました。

家に帰るのは、皆が家に帰ってきてからにしよう。

そう思ったからです。

 

しかし、いくら悲しみをごまかしてもそれが消えることはなく、約半年間にわたってときどき突然泣き出したくなるなど、犬のことを思っては涙が止まらなくなるような状態が続いていました。

 

しばらく悲しみに悲しみぬいて、できるだけ犬の死から逃げないようにしてはいましたが、立ち直るまで約半年ほどかかりました。

割り切りの良い方は、すぐに次の犬を飼うことができるのでしょうが、私には無理でした。

 

悲しむばかりではなく、そこから教訓を得る

約半年もそんな状態が続いていたあるとき、私はふとこう思いました。

「動物の命を飼い主がどうこうしようとすることがおこがましいことなのかもしれない。

飼い主がしてやれるのは、その子の状態に基づいて、最善を尽くすことだけ。」

其々の動物には、定められた運命があり、その子の運命に従って動物は生きているとういことですね。

 

あんなに頑張ったのに、どうしてだ!っていう怒りとも、後悔とも似た感情があったのですが、ペットの死に対しての私なりの解釈が変わったとき、不思議と楽な気持ちになりました。

そして、いつまでもただ悲しんでいるのではなく、犬の死というつらい体験から何か教訓にできることを学ぼうという姿勢を持つように心がけました。

 

そこから私が得た教訓は、「生き物は必ず死ぬ。だからこそ、今自分の周りにいる人や動物をもっと大切にしよう」ということでした。

当然のようなことではありますが、生き物の命は限りあるものです。動物も人間も同じ。

だからこそ、大切な人や動物と過ごすほんの短い時間でも、それに感謝をして過ごすことの大切さを私は犬を亡くしたことで学びました。

 

 

「飼い主は、動物の生老病死すべてをひきうけるべき」

ペットの死は悲しいものです。

好きであれば好きであるほど、それは非常につらい体験になるに違いないです。

それでも、やはり私たち飼い主は、絶対に覚悟をしておかなくてはいけないことなんですね。

その子の周りに起きること、楽しみ、喜び、さらには苦しみ、病気、最後に来る死、そのすべてを引き受ける覚悟です。

非常に喜ばしいこと、幸せなことがある反面、その子の身に起こる不幸はしっかりと飼い主さんが受け止めてやらなくてはいけないということです。

 

仮に予想もしない不幸に見舞われても、望ましくない状態が続いても、飼い主さんは絶対にあきらめてはいけないし、最善の努力をしてあげるべきだと私は思います。

ペットが、日常の中で多くの幸せをもたらしてくれる大切な家族の一員だからこそ、苦しいときには寄り添ってあげてほしいと思います。

ペットの持つ明るい側面ばかりでなく、その裏側にあるもの、いずれ訪れるものもしっかりと受け止めてやることが私たち飼い主がしてやれる最も尊いことだと私は考えています。

 

悲しいときは、とことん悲しんだほうが良い

ペットの死、これにどう向き合うのか、最後に私なりの考えをまとめたいと思います。

とことん悲しんで泣いてください。そしてそのあとは必ずあなたなりの教訓を発見してください。

 

その喪失感から逃げようとしたり、目を伏せれば伏せるほど、悲しみは増幅していきます。

泣いて、苦しんで、後悔して、自分を責めて、そんなことを経ながらだんだんと回復していくものです。

 

そしてある時期が来たら、そんな苦しさから何かを学ぼうという気持ちが起きてくるはずです。

動物が亡くなったことで教えられることがたくさんあるはずです。

そしてそれを人生の中で次のステップに生かしていくことが必ずできるはずです。

 

最後に

その子とともに生きていき、その子のすべてを引き受けてあげるということが、「ペットを飼う」ということです。

 

ペットを飼うということは、簡単なことではありませんし、つらいこともたくさんあるでしょう。

人間の側にもさまざまな感情があり、ペットの人生に沿って様々な感情が生まれるからです。

決して楽しいことばかりではありません。

 

しかし、だからこそ、そこから私たち人間が教えられることがたくさんあり、私たちが動物に対して味わう感情が奥深いものであるからこそ、私たちは、また動物の素晴らしさを実感するんだと思います。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

今、ペットの介護をしている方や、ペットロスで苦しい方たちの参考に少しでもなれば幸いです。